上杉景勝
上杉景勝は弘治元年(1555)、越後魚沼郡上田城に生まれました。父は長尾越前守政景、母は謙信の姉(仙桃院)。幼名は喜平次といいました。
父政景は、景勝が10才の時に亡くなり、叔父の謙信のもとで育てられました。謙信は仏門に入り、妻も子もありませんでしたので、喜平次を養子と定め、天正3年(1575)1月11日、喜平次が21才の時、姓名を上杉景勝と改めさせ、世嗣と定めました。
天正6年3月13日、謙信が亡くなると、景勝がその後を嗣ぎ、諸将・諸国を治めました。
1582年(天正10年)、織田信長が本能寺の変で討たれ、豊臣秀吉の時代がくると、秀吉は会津城主蒲生秀行を宇都宮に移し、景勝をその後任とし、百二十万石の領地を与え、奥州諸大名のおさえとしました。景勝は、秀吉の信頼が厚く、五大老という最高の地位にまで上り詰めました。
しかし、慶長3年8月18日、豊臣秀吉が63才で亡くなると、五大老の一人徳川家康は、その後の政治を次第に独占し、勢力を広めていきました。景勝が会津に移った直後、家康の呼び出しに応じなかった景勝に激怒し、家康は上杉氏討伐の軍をおこし、自ら軍を率いて会津を目指しましたが、その時、石田三成が関ヶ原に旗揚げをした知らせが徳川軍に入り、先陣が宇都宮、本隊が小山まで来た徳川軍は、秀忠を後備に残して引き返してしまいました。上杉軍では、すぐに徳川軍を追うかどうかを軍議しました。追えば勝という意見が圧倒的に多かったのですが、謙信の教えを守り、景勝は断乎としてこれを許さず、陣を払って会津に帰城しました。
関ヶ原の戦いの結果、上杉氏の領地は削られ、景勝は米沢三十万石の城主となりました。慶長6年(1601)11月28日、景勝は米沢城に入城。
これより以後、明治維新まで、およそ270年間、米沢城は上杉氏歴代の居城となり、米沢はその城下町として栄えました。
景勝の遺品が展示されています。
景勝は、刀剣のコレクターでもあり、また、なかなかの伊達男(上杉で伊達男?)だったようです。ゆかりの甲冑や刀剣が展示・収蔵されています。
特定非営利活動法人 米沢伝承館
〒992-0039 山形県米沢市門東町1丁目1番11号 TEL.0238-20-5646